羨望のコンタクトレンズとメガネの憂鬱

 

 



 近頃、ようやく暖かくなってきたなと思っていたら急に冷え込んできて、押し入れの奥にしまい込んだ毛布を引っ張り出した。せっかくの休みだからそのあたりまでちょっとおバイクを…と思っていたのに季節外れの寒さと小雨に出鼻をくじかれた。

 バイク乗りにとって寒さと言うのは本当に厄介で、真冬は時速30キロでも1時間くらい走ると体の芯まで冷え切ってしまう。そして私が何より嫌いなのはメガネが曇る事。ヘルメットの中、自分の呼気でメガネがすっかり曇ってしまう。走行中はある程度風がヘルメットの中に入るので問題ないのだが、ちょっと長めの信号待ちだとヘルメットの中で風呂でも沸かしてるのかな、というくらいに真っ白になる。曇り止めなども買ってみたけれどあまり効果は感じられなかったし、何より危ない。そこでカミさんの勧めもあってコンタクトレンズ買うことにした。

 今までちっとも知らなかったのだがコンタクトレンズというのは眼科に行き診察を受けて「処方」してもらうシロモノらしい。気軽に買えるメガネとは大違いだ。視力検査などが終わると栄養過多の桃月庵白浪のような男がやってきて、今からコンタクトレンズを入れる練習をしてもらう。それができなければ今日は処方できない、と冷たく言った。クソッ。白浪のくせに生意気な。

 コンタクトを目に入れるコツなど教えてもらい自分でやってみるのだが、これがどうにも難しい。あのフニャフニャで薄っぺらいものでも目に入れるとなると大変な違和感なのだ。何とか入ったものの、目の中に砂利が入ったような違和感。目を開けていることができない。先ほどの男がうまく入ってないですね、コンタクトレンズには裏と表がありますよ、ホラ。などと言って何かの図を見せてくれる。しかしコンタクトの入れ方がまずかったのか、自分の不甲斐なさが原因なのかわからないが涙があふれてきてちっとも見えない。コンタクトレンズでもこの有様なのにわが子を目に入れても痛くない、というのは少々乱暴な表現ではないかなと思う。

 なんとかコンタクトレンズを目の玉にねじ込んで処方箋片手にコンタクト屋さんにいく。そこでは制服を着た男子高校生とその母親。私と同じく彼も今日がコンタクトデビューらしい。母親が店員さんから商品の説明を受けていたのだが、彼は左右で視力が異なるらしく、すこし高額になるようだった。

 母親が「ええ?!月に1万円?!あんたのコンタクトに?!」と倒置法を用いて家計にそんな余裕がない事を強調している。部活の試合の時にだけコンタクトにしてそれ以外はメガネにしなさい、ね?という母親の提案に彼は口ごもり、ハッキリとは答えなかったけど、離れてみていた私にも彼がメガネを捨て去ってコンタクト一筋で行きたい気持ちが伝わってきた。

 わかる。わかるぞ少年。君がコンタクトにしたい理由、それは部活のためだけではないよな。よくわかるぞ。まあ男子高校生がメガネを捨て去ってコンタクトに切り替えたい理由なんというのはひとつしかない。今さら説明する必要もないかもしれないが、以下の通りだ。

 

 僕はこの授業が早く終わらないかなと、窓の外の桜の木を見た。ちょっと前までは満開の桜だったのに今では葉が青々としている。桜は満開になったと思ったらあっという間に散ってしまった。黒板の上の時計をちらと見たが、さっき桜の木を見てからまだ5分と経っていない。さっきからこうして5分おきに時計と桜の木を眺めてため息をつく。

 僕が数学Ⅱの時間が嫌いなのは、数学が苦手だったのもあるけれど、何より微分方程式が将来何の役に立つのかさっぱりわからなかったからだ。あと13分してチャイムがなると前の席に座る君は、ソニプラでなおちゃんとお揃いの買った、というペンケースにシャーペンと消しゴムをしまって、小さく伸びをして僕の方に向き直る。背もたれに両腕をのせて僕を見上げる。そして「ねえ。面白い話してよ」と言うのだ。僕は最近観た映画の話や、昨日の夜中に聞いたラジオの話をする。

 授業と授業の間5分間、君と話すのが最近の日課になっていた。僕には微分方程式や等差数列より、こっちの時間の方がよっぽど大事なんじゃないかと思った。授業の最後の5分はいつまで経っても過ぎないが、君と話し込む5分はあっという間に過ぎてしまう。同じ時間なのに体感が異なる。アインシュタインの物理学にこんな話があったな。こういうの何て言うんだっけ。

 昨日は放課後教室で話し込んだ。何気なく僕が眼鏡をはずしてあくびをすると「あれ、意外とメガネしないのもいいじゃない」と言って君は笑った。西日があたって君の頬は黄金色に見えた。僕は話すのを少しやめて、その笑顔をもっとよく見たいと思った。

 と思ったからコンタクトレンズを買いに来たのだ。男子高校生がコンタクトに切り替えたい理由それは「黄金色に輝く君の笑顔をもっと見ていたいから」それ以上でもそれ以下でもない。オンリーワンでナンバーワンの理由だ。いいじゃないですかお母さん。彼は今、何かが始まろうとしているのです。買ってやって下さい。素敵な理由じゃないですか。私の「赤黄緑に輝くLED信号機が見えないと死んじゃうから」という理由とは比べ物にならないほどプライスレスな理由だ。私は彼が最後まで食い下がったかどうか確認はできなかったのだけど、ぜひ戦ってほしいところだ。若いってのは裸眼じゃ直視できないくらい眩しいのだ。

 



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