ベッドで漂流する少年➀

 コロナ自粛が始まって二年、とうとうキャンセルになる仕事もなくなってしまった。家で寝てばかりいても仕方がないのでブログでも書いてみようと思い、カミさんに色々と手伝ってもらいはじめてみた。「仕事もないし、ブログでもすっか!」というのは噺家の不況ここに極まり、といった感じだけれども元々文章を書いてみたい、という気持ちはあったからいいのだ。           

誰にも邪魔されず、思うままに書く。走ることが好きな人がランニングするように、私はここに文章を書く。だから「あ!そんなこと書いちゃいけないんだ!」とか「つまらん文章書くな!」とか「長い!」とかいうやつは表へ出ろ!おれは裏から逃げるぞ!とそういう逃げ腰的性質のものだから、いちいち何か言う人はそっちがおかしいんだからね。と先に言っておく。

さて何を書こう。芸人さんのブログは仕事で忙しい毎日を、新幹線の車内で買ったピスタチオとアサヒスーパードライの写真とともに「素晴らしい会場で素晴らしいお客様でした!帰りのビール最高ー。」などと綴ったりするものなんだろうけど、そんなものはない。久しくない。仲間と現場でこんな楽しいことがあったよ!こんなとこで遊んだよ!とかもない。これは下手するとコロナ前もない。いや、ちょっとはあったのかな。

仕方ない。自分の生い立ちでも振り返ってみようか、と思って振り返れば、そこにあるのは病との闘いの思い出ばかり。12歳の時に腎臓を患って、16歳の時に人工透析を始めて、23歳の時には腎臓移植をした。こうして文字に起こすと、まぁなんと気の毒な人生にも見えるのだけれど決して辛いことばかりではなかった。むしろ普通の人が体験できないような楽しいことが山ほどあった。そこんところを重点的に振り返っていきたい。辛い思い出ばかり振り返ってもつまんないもんね。

私が中学1年生の時に入院したのは北里大学病院の4-C病棟という今は無き、小児病棟だった。小児病棟がほかの病棟と違うのは、院内学級があることだ。長期の入院で学校にいけない子供たちが、足りない出席日数をそこで補う。毎日ベッドの上から同じ病棟内にある、机や本が並べられた部屋に「登校」する。小児病棟の子供たちがそこに一堂に会するわけで、自然と顔見知りになり、友達になっていった。

当時は小学1年生から高校2年生まで10人くらいが院内学級にいた。そこで院内学級の先生や、ボランティアの人たちと勉強していた。昼の3時に院内学級から解放されると、おやつを片手に(小児病棟では3時におやつが配られた)誰かのベッドの上に集まって、毎日ポケモンカード大会が開かれた。景品として集められたお菓子の山を、小児病棟特有の柵がついた小さなベッドのわきに寄せて、デッキを組む彼らの目は勝負師そのものだった。当時、白血病の治療をしていた小学3年生のK君と一番親しくしていたのだけれど、彼はなかなか狡猾なヤツで点滴棒に鏡を付けて相手の手札を盗み見る、というすごい手を使ってくるので油断ができなかった。

「にいちゃん、なんでも怖がってばかりじゃダメだよ。やってみないと。」と彼は鋭い目つきで私をじっと見据えて「看護師さんの胸の谷間にベイブレードを突っ込む」という高度な遊びを教えてくれたが、怖がりの私には真似ができなかった。集まって遊んでいた連中はみんなどんな病気を抱えていたのか互いに知っていたけど、不思議と病気の話はしなかった。

K君も私も病棟で誕生日を迎えた。バースデーケーキがもらえると聞いて小躍りしていたが、二人とも食事制限があってMONO消しゴムほどの大きさのケーキだった。それでも嬉しかった。私とK君の担当になっていた看護師、Mさんは星野真里似の美人で誕生日に小説をくれた。とっても好きな本だから読んで欲しい!と渡された本は、幼馴染が長期入院している主人公の話で「ああ、この重病の幼馴染は元気になって主人公とまた学校に行くのかな」と読み進めていくと、病気の幼馴染はあっさりと死んでしまって心底驚いた。

まるで寮生活のような暮らしをしていた病院から退院する日が決まったときは、嬉しいのか寂しいのかよくわからなかった。夜勤明けにベッドサイドで話すうちに居眠りをするMさんとも、没収されたベイブレードを取り戻そうとナースステーションに侵入するK君とも、その日以来会っていない。不思議と退院の日の事はさっぱり思い出せない。退院してから待っていたのは、病院の外の世界へ戻るという大仕事だった。



コメント

  1. キセガワハナコ より:

    初めまして。国立5月中席で初めて伊織さんのお噺を聴きました。とても印象的で忘れられず、今後のご予定を知りたくてこちらに辿り着きました。ブログも面白い!K君とMさんの姿を想像しながら読みました。続きを楽しみにしています。

タイトルとURLをコピーしました