夫から見た出産のはなし

 長男が生まれたのは2024年の11月。その年は11月になっても汗ばむ陽気が続いていたが、長男が生まれた日は冷え込んだ。無痛分娩を選択したカミさんは出産の数日前から入院していて出産する日は計画的に決められていた。

出産当日。分娩に立ち会う事になっていた私は差し入れのお菓子とミルクティーを持って早目に病室に入ると、カミさんはニンテンドースイッチで桃太郎電鉄をプレイしていた。世界中の物件を制覇してもうやる事がないのだという。これから出産を控えた妊婦とは思えない余裕だ。アメリカIT関連の物件を心配している場合ではないのではなかろうか、と思ったが思い詰めて塞ぎ込んでいるよりはいいのかもしれない。

 カミさんは薬を使ってから陣痛と思しきものはきているが、まだまだ時間がかかる、初産故に今晩中の出産は無いかもしれぬという。長期戦に備えて先に夕食を済ませるように、と言われ素直に従う。病室を離れて地下の食堂で唐揚げ定食を注文した。初産は時間がかかると聞いていたが、日付をまたぐことも珍しくない、と聞いて驚いた。

唐揚げ定食が運ばれてくる。ここの唐揚げは衣が薄く、外カリカリ中はジューシーで非常に美味い。三つ目の唐揚げにとりかかろうとした瞬間にカミさんからLINE。「出産の瞬間は立ち会いたい?」。なにを言っているんだこいつは。さっき書類にサインしたじゃないか。よっぽど暇なのだろうか。一度帰って桃鉄の国内版を持ってきてやろうか。「そのつもりだよ」と返信すると同時に既読が付き「だったら戻ってきたほうがいいかもよ。そろそろ産まれるかもしれない」。オレは口に入れようとしていた唐揚げをポトリと落とした。どういう事だ。さっきまで今日中はないかもと言っていたではないか。

 口の中を唐揚げでいっぱいにして、さっきの病室とは違ってやや無機質で医療器材がたくさん並んだ分娩室に飛び込んだ。助産師さん2名、お医者さん2名がカミさんの周りを慌ただしく動き回っている。本格的に生まれる段階に入ったらしい。どうやらカミさんは異常にいきむのが上手かったらしくスーパー安産コースをアクセル全開で爆走中らしい。こんな所でリニアカードを使うんじゃない。

 私は心の準備も何もできていないのにいきなり佳境に来てしまった。一番気がかりなのは便意を覚えていること。意識のかすか遠くだが確実に着実に存在感を増している。ベッドサイドでカミさんの汗をぬぐいながら一番近いトイレの場所を思い出していた。「もうすぐ!頭見えてますよ!」と助産師さん。こっちも頭が見えてしまいそうで怖い。お医者さんや助産師さんのやりとりから出産の瞬間に向かって分娩室のボルテージが上がっていく。もうすぐ産まれますよ!という助産師さんの声。オレももうすぐ生まれそうだが、もうどうでもよかった。隣でカミさんが物凄い形相でいきんでいる。細くて華奢なカミさんのどこにこんなエネルギーが隠されていたのだろうと驚いてしまった。もうこの瞬間から「親の愛」は始まっているのだなあ、と思った。助産師さんが今日一番、気合の入った声で「イキむのやめて!」と言った数秒後、分娩室に弱弱しい泣き声が響いた。瞬間、自然と涙がこぼれた。辛い事の多い人生であったが嬉しくて涙が出たのは人生で初めてだった。やっとだ。やっと無事に会う事ができた。

産まれた瞬間のわが子を見てカミさんは「かわいい!」と声を上げた。元々子どもは苦手だ、といい妊娠中も子どもを可愛いと思えるか自信が無い、こぼしていたカミさんだったのでこの第一声に驚かされた。母性本能が爆発的に芽生える瞬間を目の当たりにした。

 奥様のケアをしますのでしばらくお父さんが抱いていて下さい、といわれて生後15分の我が子を抱いた。重い。本当に重い。たった3キロほどなのに椅子に座って抱いていた足が痺れてくる。このか弱い小さな命の重みなのだろうか。かわいい、というよりは、今まで胎内でカミさんの酸素と栄養かすめ取ってぬくぬくと生きてきたこの小さな生き物が、いきなりこの世に放り出されて大丈夫なのだろうかと心配になった。

 すべての処置を終えてカミさんと我が子に別れを告げて病室から出た。帰りのバスを待つ間に体がどんどん冷えていく。寒い日に生まれてきたんだなあ、お前は。と病院の方を見上げた。自宅に帰りひとり祝杯を上げた。「今日が人生で一番幸せな日だ。ありがとう」と声に出してビールを飲んだ。いつの間にか便意が完全に消え失せているのがやや気がかりだったが、人生最良の日を祝った。

コメント

タイトルとURLをコピーしました