幼い頃、神奈川県相模原市の古淵という駅の近くに住んでいて小学校に上がる直前までそこで過ごした。両親は共に教員で朝早くから夜遅くまで働いていたので休みの日は基本的にぐったりしていて、ある程度大きくなると1人で遊ぶ時間が多くなっていった。近所の子供たちと遊ぶ事ももちろんあったけれど、1人で何か設定を作って遊ぶのが好きだった。
例えば段ボールをどこからか拾ってきて、滑り台の頂上に城を作り「今日からここで自給自足の生活かあ。」と遠くを見て深いため息をついたりしていた。基本的にはおかしな子供だったと言っていいだろう。
まずは自分で食料を確保しなければ!自給自足だし!と鼻息荒く歩き回るがせいぜい5、6歳の考える「じきゅーじそく」なので家のお菓子ボックスから両親の目を盗んでクッキーをせしめ「うむ。今日は大冒険の末に食料を確保できた。」と悦に入り、また遠くを眺めて物憂げにため息をついた。この自給自足では基本的に食糧には困らなさそうだ。しかし水分確保だけはやけにシビアで、基地の天井にストローを通して雨水を確保しようと試みていた。
そういう空想癖を知ってか知らずか両親は私にたくさん本を与えてくれた。母が図書館で唐突に本を借りてきたり、買い物の際に本屋に立ち寄り何か一冊買ってもらったり本との出会いが多い幼少期だった。特に小学生の夏休みに近所の小さな図書館で「この夏ひと夏分!」といってどっさりと本を借りてくるのが楽しかった。本の世界というのは私にとってどっぷりと空想の世界に浸れる道具の一つで、退屈な日常(小学生の日常に退屈が存在したとは思えないが)から現実逃避する格好の手段だった。テレビゲームも同じく空想の世界に浸るためのもので7,8歳ごろからは本とゲームが好きな子供になっていた。これは最近枕カバーから薄っすらとオヤジと同じ匂いがするようになった34歳現在でも変わらない。
空想の世界に浸るのが好きだったが、熱中するあまりなかなか現実世界に戻れない事もあった。昔高倉健さんの映画を観た後、映画館から出てくる人は全員健さんになってしまっていた、という話を聞いたことがあったけれどその気持ちがよくわかる。私の場合は読んだ本に影響されやすい性質で一時夏目漱石、太宰治、谷崎潤一郎らを集中的に読んでいた際は、あの時代のあの手の小説によく出てくる「何となく憂鬱そうな顔をした大人しい意気地のない文学セーネン」たちが私に降りてきてしまい大変に困った。
熱中して読めば読むほど、勉強も遊びもやりたいだけできる現実世界の恵まれた環境の大学生、に戻ってくるのが難しくなりもともと病弱な顔つきをしているのにさらに気だるそうな顔をして背中を丸めて歩いていた。週3回透析をしている筋金入りの不健康な若者が結核でも患ったような顔で歩いているので、良心的な友人たちは「どうしたの?」などときいてくれたけれど、私はニヒルな笑いを浮かべてさらに背中を丸めてとぼとぼと歩いていた。本格的に頭が悪い大学生だったと言っていいだろう。
しかしここ何年かは読書になかなか集中できない。とても悲しい現実だ。思考が散らばってしまうのだ。あっせっかく読書するなら美味しいコーヒーでもいれなきゃな、そういえばコーヒーの残りはあったかしら、今度こそポイントカードの特典でコーヒーをもらわなくっちゃ、ポイントカードといえば楽天ポイントの有効期限が迫ってたっけ、ポイントでキャンプ用品でも買おうかな、そういえば去年行った秩父のキャンプ場は良かったな、などと思考がどんどん読書から離れていってしまう。目はちゃんと文字を追っていて主人公宅を訪ねてきた友人がしいたけを食べたら前歯が欠けた、というエピソードの最中なのも理解しているが昔のようにどっぷりと本の沼に首ったけ、とはいかなくなってしまった。
今日はもっとお手軽に読めるヤツにしようかなと方針転換することは多々あってそんな時に手を伸ばすのがハリーポッターだ。この本はすごい。どんなコンディションでも何回読破していてもぜったいに本の沼に引きずり込んでくれる。そんな子供の読むものでしょう、と鼻で笑ったアナタ。読んでごらんなさい。睡眠時間を削ってでも読みたくなる本ですよ。ただ、ハリーポッターのシリーズ、内容は読みやすくてお手軽なのにその重量ときたらちょっとした鈍器だ。文庫版が欲しいなあ。
そのときのコンディションに合わせて本を「処方する」なんてサービスは面白そうだ。本の集中力を取り戻したい時はハリーポッター、食べ歩き旅行のお供には東海林さだおの「ナマズの丸かじり」、日々に退屈してちょっとアブナイ恋を楽しみたい時には谷崎潤一郎の「卍」、最後の最後にぶっ飛ぶようなどんでん返しをみたいなら荻原浩の「噂」など。処方箋を受け取って図書館のカウンターに行き処方してもらう。その際にこんなのもいいですよ、と司書さんに追加で処方してもらってもいい。
コメント